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【読書感想】『ロジ・コミックス:ラッセルとめぐる論理哲学入門』

time 2015/08/14

書評サイトのHonzで紹介されていた『ロジ・コミックス』という本に関する書評を読み、衝動買いをしたら本当に面白かったので感想を書いてみたい。

本書は、主に20世紀前半の論理学・数学を巡って「グラフィックノベル」という形式で書かれた本だ。平たく言えば「マンガで分かる●●」みたいな本ではあるが、本書は単にわかりやすくするためにマンガにしました、という作品とは一線を画する素晴らしい出来だ。書評にある通り、「内容と形式が不可分であり、表現技法を追求した結果として必然的にグラフィックノベルという形式へ着地したのである」。この指摘を読んでから本書を読んでいなかったら、あまり意識することなく、論理学の歴史をマンガで読みましたという感想しか抱かなかったかもしれないので、大いに参考になった。

さて、本書において内容と形式がどのように結びつき、素晴らしい作品となっているか自分なりの理解を書いていきたいと思う。本書は、バートランド・ラッセルを主人公として、論理学に関する議論や、20世紀の戦争の歴史が語られていくが、同時に、作品中に本書の作者たちが登場し、内容や話の進め方について議論をしているところも描かれており、自己言及的な作りになっている。また、作者たちが合間に、ギリシャ悲劇の『オレステイア』を見る場面も描写される。

なぜギリシャ悲劇について触れられているのかというと、論理学の展開も、20世紀の歴史も、ラッセルの人生も、オレステイアもまた、「論理・理性の限界」という本書の主題を重層的に表現しているからだ。論理学は、主人公であるラッセルが提起した「ラッセルのパラドクス」によって、ヨーロッパ科学の最大目標の1つであった、明確な基礎の元に数学を構築するということの不可能性が明らかにされる。そして、ラッセルの著作を読んだゲーデルによって、論理体系が必然的に不完全であることが論理的に証明されてしまう。

そして、20世紀の歴史もまた、科学主義や理性主義によって文明が発展するが、その鬼子とも言える全体主義・ナチズム・共産主義によって戦争の悲劇をも生み出してしまい、論理・理性だけでは社会が維持しえないことが明らかとなる。学問と歴史は密接に結びついているのだ。

また、ラッセル個人の人生においても、理性主義に基づいた進歩的な教育を息子に施そうとしたが、うまくいかなかった。その後、息子は統合失調症と診断され、孫娘は自殺している。他の登場人物である論理学者たちの多くもまた、狂気と隣合わせの人生を送っている。彼らの人生もまた、論理の限界を指し示している。

最後にオレステイアについて。娘殺しの夫を殺した母親を、父の仇として殺した男であるオレステース。オレステースを復讐の女神たちは殺そうとするが、都市国家アテネの守護女神であり、英知の女神であるアテナに救いを求める。アテナは陪審を召集し、アテネの市民によりオレステースを殺すか救うかの裁きを行う。票は同数となり、アテナの1票によりオレステースは救われる。怒り狂う復讐の女神たちに対して、アテナは彼女たちをも崇めることを約束することによって説得し、復讐の連鎖を断ち切る。英知を得るには、普通なら賢明でないとされるものをも受け入れなけれなならない。この寓意が、論理の限界を乗り越えるための方策として示唆され、本書の結びとなる。

このように、主題を巡っていくつもの話しを重層化していくのは、文字だけよりも絵による表現がより適していると思う。もちろん文字表現によっても不可能ではないが、やはり絵によってぱっと場面を切り替えていけるマンガには利点がある。また、これが映画やアニメ=絵+音ではなくマンガ=絵+文字というのも、論理学のような難しい主題を扱うにはより適していると思う。流れていく動画よりも、テキストの方が立ち止まって考えたり、自分のペースで読み進め易かったりするからだ。必然的にグラフィックノベルに行き着いたというのは本当にそう思う。

もう1つ、「自己言及」も大事なテーマであり、これも本書において重層的な構造をもっている。論理学が目指した、論理の確実な基礎の上に数学を構築していくという目標は、ラッセルのパラドクスの「自己言及」という裂け目によって失敗し、ついにゲーデルによって不完全性が証明されてしまう。そこに、本書の内部に作者たちが登場して内容を議論していくという、自己言及的な表現形式が重ねられている。このことは、本書が本書だけでは完結しておらず、次の物語に開かれていることをメタレベルで表現しているように思われる。

本書自体は、最後にオレステイアの演劇をもってくることで、論理の限界という主題を、古代の知恵=最終的な解答ではなく折衷的な暫定解によって埋め合わせ、一応の区切りをつけているように見える。ただ、それと同時に、論理学・数学が生み出した20世紀最高の成果である、コンピューターの発展に言及することによって、次の物語をも準備している。

コンピューターの物語は現在進行形の物語だ。ゲーデルの不完全性定理が論理の限界を定めたが故に、アラン・チューリングは、全てを証明することができない、なら何が証明できるか確かめようと考え、証明を定義するために理論上の「機械」=「チューリング・マシン」を発明した。こうして、チューリングやフォン・ノイマンにより、今に至るコンピューターの基礎が生み出された。

そのコンピューターが現代では大いに発展し、知性や論理に新たな光をあてている。コンピューターやAIの発展は、理性・論理と感性・感情の相克という古くからの問題にどのような影響を与えるのだろうか。理性の極致としてAIが暴走して人類は滅びるのか、うまく利用してより良い社会が築けるのか、現代に生きる我々はみな、この物語の登場人物である。

 

最後に、1つだけ書評について気になったことを述べたい。書評の最後はこのように締めくくられている。

「内容と形式の間に記述された、もう一つの物語。こういう実例を示させると、紙の本か電子書籍かなどという形式の違いが、実に瑣末なものに思えてくる。」

これまで論じてきたことは、形式と内容の間には密接な関連があり、形式が違ってくると表現できることの内容にも強い影響を与えるし、内容に即した形式を選択することが、作品の芸術的価値に関わってくるということだと理解している。であれば、電子書籍という形式にもまた、新たな表現を生み出し得る可能性を見出してもいいのではないかと思う。僕が電子書籍の普及と発展を願っているのでひいき目に見てる面もあるかもしれない。今はまだ全体として、紙の本を忠実に再現するという段階だと思うけど、いくつか新しい表現の萌芽となるものは見かけたことがある。マンガに音を付けるとか、一部が動くマンガとか。まだまだ実験的なものかもしれないが、いずれ、この内容を表現するにはこの形式が必然だったのだ、と思えるような電子書籍ならではの傑作が生まれると僕は確信している。

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