空想独立国家

ブロックチェーンでdecentralizedな社会を実現したい。

『機械との競争』は怖くない、ベーシックインカムさえあれば

time 2015/07/19

機械やテクノロジーが人間の仕事を奪うというのはありふれた話になっていて、僕が最近読んだ本の中でも、『機械との競争』や『テクノロジーが雇用の75%を奪う』というのはタイトルからして暗い未来を感じさせる。ハードとしてのロボット、ソフトとしてのAIの両面の進化は、機械によってできる領域を日々広げている。取り上げた2つの本とも、今後のテクノロジーの趨勢についての分析については勉強になるし、非常にまとまっていて良い本だと思う。ただ、どちらにも共通して抱く不満が、じゃあどうするという部分が少し弱いと感じるのだ。「こういった種類の仕事は今後機械に代替されていく可能性が強いですよ」と言われたら、個人としては機械に職を奪われないような仕事に就こうとするのが合理的な行動と言えるだろう。だが、社会全体として仕事が減っていくのだとしたら、どんなに頑張っても職にあぶれる人が出てくるのは自明だ。そのような人たちはどうすればいいのだろうか。

『機械との競争』で挙げられている対策は、教育への投資、起業家精神の称揚・規制撤廃、インフラ・研究開発への投資、法規制・税制の改革といったことだ。多少は福利厚生と雇用の切り離しといった再配分的政策にも触れられているが、メインはあぶれた人を再教育しつつ、雇用の流動性を高め、人間がやるべき仕事をもっと増やしていこうという方向性だ。だが、テクノロジーの進歩が破壊的なスピードで迫ってますよと前半部で強調していなかっただろうか。挙げられている対策の必要性は否定しないが、本当に新しい雇用を生み出すという方向性で間に合うのだろうかという疑問は残る。

『テクノロジーが雇用の75%を奪う』の方は、僕の観点ではもう少し実効的な対策を挙げているように思う。労働者は消費者でもあるのだから、雇用が失われれば、消費も減少して不況をもたらすし、治安などの社会状況にもマイナス要因となる。そうなると、ロボットを活用する経営者や富裕層にもマイナスの影響が及ぶのであるから、失われた賃金に相当する部分くらいは増税して負担をしてもらい、消費者に再配分しようということを提言している。しかし、筆者の提案では、この再配分がジョブシェアリングであるとか、再教育・地域活動といった給与は発生しないが社会的に望ましい行動へのインセンティブとして給付することに紐づいている。政府による規制・雇用支援が給付の前提になっているのだ。僕としては、政府による介入がうまくいくとは思えないし、無条件で給付をしてしまうことへのモラルハザードの懸念に囚われ過ぎているように思える。機械化で仕事が失われていくことを認めながら、なおも何とか仕事をすることに再配分を結び付けようとするのは、やはり無理があるように思える。

僕の意見は、当ブログで度々取り上げているように、ベーシックインカム(以下BI)を導入し、正面から「生存と労働を切り離す」ということを考えた方がいいというものだ。BIにおいては稼げば稼ぐほど所得は増えるから、労働と所得を切り離すことが目的なのではなく、むしろ労働・雇用と社会保障の結びつきを切断することに眼目がある。機械によって人間の仕事が不要になっていくのはほぼ確実な未来だとして、何故それが問題になるのかといえば、その後に「仕事を奪われた人が路頭に迷う」という展開が前提とされているからであり、労働・雇用と社会保障の強固な結びつきこそが問題なのだ。しかし、よくよく考えてみれば、機械によって社会全体の生産性は向上していくのであるから、職に就く人が減ったとしても「生産力」は十分だということだ。食糧生産を例にとれば、日本の農業がGDPに占める割合は1%程度、農業従事者は4%程度ということだ。食糧の多くを輸入に頼っていることを勘定に入れても、生存の基本となる食糧生産でこの程度だ。生存の必要を満たすための生産力ということに限れば、実は現状においても多くの人は働く必要がないのではないか。

そんな状況の中で、「働かざる者食うべからず」という倫理を強迫観念のように持ち続けることにどれだけの意味があるというのだろうか。僕だって、昔のように物資が欠乏していて、多くの人が必死に働かないといけない社会状況であれば、「働かざる物食うべからず」を支持するが、社会状況が変わっていることを深く認識すべきだ。問題は、雇用が失われるかどうかではなく、雇用がなくても生存が保障されるだけの再配分があるのかということなのだ。BIは、そうした方が望ましいというよりも、機械化し雇用が失われていく未来にとって、大前提の制度と言えないだろうか。十分な生産力が確保されているのにも関わらず、誰もが自分の職を失うかもしれない、それによって食べていけなくなるかもしれないという心配をしなくてはならないのは何かがおかしい。機械化によって人が必要なくなっていくと言っているのに、BIによって働く人が減って、社会に必要な物が生産されなくなるという、よくある批判は矛盾していないだろうか。そういう批判をする人は大抵、自分はBIが導入されても働くのを辞めないが、怠け者が増えるなどと言うのである。自分自身がそうであるように、ほとんどの人間は最低限の生存が保障されただけでは、日々を無為に過ごしたりはしないものである。ただ、今よりも少し残業を減らそうとしたり、転職してもっとやってみたかったことに挑戦しようとしたりするに過ぎないはずなのだ。そして、一昔前だったら遊んでいるようにしか見えない「ゲーム実況」が仕事として成立するのだから、遊んでいることと働くことに区別をつけることに何の意味もない。コンビニやファストフードのバイトに人を縛り付けるよりも、好きなことをやらせた方が社会全体が生み出す価値は増していくのだ。そういった人々の自由な活動を土台で支えるのがBIなのだ。

逆に、BIによって最低限の生存保障が実現した場合を考えてみると、機械化・合理化を今よりも気兼ねなく加速させていくことができるだろう。BIがあれば雇用規制や最低賃金といったものは大部分撤廃していくことができる。ブラック企業の問題などは、仕事を辞めたら露頭に迷うという労働者の足元を見ていることに起因するのであるから、辞めてもとりあえずは生きていけるとしたら、労働者の交渉力が向上し、問題は解消に向かうだろう。そうすると単純労働の供給は減っていくだろうから、時給単価は上昇傾向となり、経営者にとっては機械化へのインセンティブが増す。機械化によってさらに社会は効率的になり、益々労働が不要になっていくという正の循環が始まる。この過程によって生み出される人間の余った活動力は、より創造的なことに振り向けていくことができる。僕はそれが真善美の追求ということに集約されると思っている。真=科学技術の研究、善=政治・哲学、美=文化・芸術活動といった「人間的」な活動だ。生存の必要を満たすための労働は機械に任せて、人間はより高次の精神活動に重きをおくことができる(遊びも含めて!)。科学技術立国とか、クールジャパンと言ってるのだから、高付加価値産業に軸足を移せるメリットもあるし、余暇を楽しみ、地域社会や家庭生活によりエネルギーを向けられるのは社会的にも望ましいことだろう。機械化により生み出される富は、もちろん投資家や起業家に大部分は配分されるが、科学・技術の進歩は「巨人の肩に乗ることで」、つまり先人の積み重ねにより生み出されたものであるから、その一部が社会のための再配分に回されるべきなのは、倫理的な観点からも正当であると言える。

もちろん、BIが実現したからといって、全ての人が幸福なユートピア社会が成立する、というわけにはいかないだろう。みんなが自分のしたいこと、好きなことをするようになるのだから、才能を巡る競争は今よりもずっと熾烈になるだろうし、結果として生じる格差も肯定されていくことだろう。しかも、自分の好きなことを追求する際、経済的な理由で撤退する言い訳も通用しなくなるのだから、自分の才能や、自身の人生の選択と向き合い続けることを余儀なくされる。それを苦しいと感じる人も出てくるだろう。だが、BIのいいところは、競争から降りても生きられることだ。それによって価値観が多様化していき、様々な生き方が肯定されるだろうから、やりたくもない仕事を嫌々やるよりは、総じてマシな社会であるとは言えると思う。

労働から切り離された再配分・生存保障があるかないかで、機械化が社会にもたらす影響は違った見え方がしてくるのではないだろうか。機械との競争に怯えて機械を打壊すよりは、生産性向上の分け前を要求した方がはるかに建設的だと思う。社会の安定的な発展のためにも、雇用と生存を切り離すための再配分政策を正面から論じる時が来ている。

 

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